
「中央アジアのソ連時代」を知ることは、現代の中央アジア諸国とロシアとの複雑な関係を理解するカギです。かつてソビエト連邦の一部だったこの地域は、1991年のソ連崩壊で一斉に独立を果たしましたが、その後も政治・経済・文化のあらゆる側面でロシアとのつながりが色濃く残っています。
この記事では、ソ連支配下での中央アジアの変化から、その崩壊がもたらした影響、そして現在のロシアとの関係性までを、時代ごとにたどっていきます。
ロシアと中央アジアの関係は19世紀後半から始まります。当時の帝政ロシアが南下政策を進め、トルキスタン地方(現在のウズベキスタンやカザフスタン南部など)を次々と支配下に置いていきました。
最初は軍事的な征服でしたが、やがて鉄道や行政機構が整備され、カザフ・ウズベク・トルクメンなどの諸民族がロシア帝国の支配下に取り込まれていきました。
1917年のロシア革命を経て、1922年に成立したソビエト連邦は、中央アジア地域もその版図に含めます。
カザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・キルギス・タジキスタンの5つの共和国がソ連構成国として「自治」の名のもとに組み込まれていきました。
ソ連時代、中央アジアでは急激な近代化と同時に、徹底した同化政策が進められました。経済・教育・言語・宗教など、あらゆる面でロシア化が行われたんです。
たとえば、カザフスタンでは「ヴァージン・ランド開発」と呼ばれる未開拓地の大規模農地化プロジェクトが行われ、小麦などの穀物生産が一気に拡大。またウズベキスタンでは綿花の大規模栽培が推進され、農業構造が完全にソ連仕様に改造されました。
教育や公的な文書の場面ではロシア語が標準とされ、自民族の言語や文化は「後進的なもの」とされがちでした。結果として多くの若者がロシア語で教育を受け、自分たちのアイデンティティとの間にギャップを感じるようになっていきました。
また、伝統的なイスラム文化に対しては宗教的弾圧が行われ、モスクの閉鎖や宗教教育の禁止などが進みました。ソビエト的「無神論」思想に基づく、信仰の自由の制限が社会に影響を及ぼしました。
1991年、ソビエト連邦は突如として崩壊します。中央アジアの5つの共和国は、予期せぬ形で一斉に「独立国家」となりました。
けれど、経済も政治体制も「ソ連モデル」一色だったこれらの国々にとって、独立は手放しで喜べることではなかったんです。市場経済への移行も一筋縄ではいかず、ハイパーインフレや失業が一気に広がりました。
一方で、それまで抑え込まれていた民族意識や宗教的価値観が復活。各国は固有の文化や言語を再評価し始め、自国の歴史や伝統を基盤とした新しいナショナリズムが形成されていきます。
興味深いのは、多くの国がソ連時代の記憶から「ロシアからの自立」を目指した一方で、経済や安全保障ではロシアとの関係を断ち切れなかった点です。特に天然資源の輸出や出稼ぎ労働者の送金など、ロシア市場に依存していた面は大きいんです。
独立から30年以上が経った今でも、中央アジア諸国とロシアの関係は切っても切れないものがあります。ただし、その関係のあり方は国によって大きく違うんですよ。
カザフスタンはロシアと国境を接し、ロシア系住民も多いことから、伝統的にロシアとの関係を重視してきました。それでも中国や欧米との関係も強化し、「多極的外交」を模索しています。
一方、ウズベキスタンは比較的「ロシア離れ」の姿勢が強い国。政治的にも独自路線を打ち出し、トルコやアメリカとの関係を強めてきました。ただし安全保障や出稼ぎ労働の面では、今もロシアとのつながりが大きな比重を占めています。
実際、中央アジア諸国の多くは自国民がロシアに出稼ぎに行っており、その収入が国の経済を支えているケースもあります。ロシア語は今でもビジネスや教育で使われており、「生活言語」としてのロシア語は根強く残っています。
最近ではロシアによるウクライナ侵攻の影響もあり、中央アジア諸国のロシア観には再び揺れが見え始めています。「同じように侵略されるのでは?」という不安や、逆に「ロシアはやはり無視できない存在」といった二極的な見方が広がっているんです。
中央アジアのソ連時代を振り返ると、その影響は今でも経済や言語、文化、政治に深く刻み込まれていることがわかります。だからこそ、ロシアとの関係は「過去のつながり」だけでは片づけられないんですよね。これからの時代、中央アジア諸国がどうロシアとの距離感をとっていくのか、その変化に注目していきたいところです。